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書評

野口雅弘著『闘争と文化 マックス・ウェーバーの文化社会学と政治理論』

みすず書房2006

『図書新聞』2006.12.16. 2

評者・橋本努(はしもと・つとむ)

北海道大学大学院経済学研究科・助教授

 

 

 三年前にドイツのボン大学に提出された博士論文を、著者自身の手によって邦訳した本格的なウェーバー研究書である。その内容を紹介する前に、まずウェーバー研究をドイツにて完遂された著者の血の滲むような労苦に敬意を表し、また本書を日本語で読める喜びを噛締めたい。著者は私とほぼ同世代の研究者であるが、氏はドイツにおける丹念なテキスト・クリティークの作業を通過しており、本書は、博論の緊張感と息遣いをそのままに伝える渾身の作となっている。

 意図という点から言えば、本書はドイツで書かれたとはいえ、決してドイツの最新研究事情を把捉することに主眼を置くのではない。ドイツと日本とでは、ウェーバー研究の質に大きな差があるわけではなく、むしろ日本のウェーバー業界はドイツよりも規模が大きい。その事情は例えば、廣松渉研究が日本よりも中国においていっそう発展しているという事態に似ているだろう。本書は決してドイツ語圏の輸入学問ではなく、むしろ本書の魅力は、テロ事件後の世界の現実政治を目の当たりにして、ウェーバーを新たな着眼点から読みこむという、著者の野心的な企てにこそある。ウェーバー理論のアクチュアリティを探し求めて最大限の知的労力を払うことにおいて、本書は稀にみる鮮やかな達成を示している。

 振りかえってみると日本のウェーバー研究は、この一〇年間のあいだに内発的な発展を遂げてきた。例えば、九七年に山之内靖氏が『マックス・ウェーバー入門』(岩波新書)を著すと、「折原-山之内論争」が交わされて話題となり、また九九年には「マックス・ヴェーバーと近代日本」と題するシンポジウムが東大にて開催され、その成果は二〇〇〇年に『マックス・ヴェーバーの新世紀』(未來社)として刊行されている。小生も編者の一人として加わったこの書物は、二〇世紀と二一世紀の結節点を意図したウェーバー研究書であったが、現時点からすれば、多くの人々は二一世紀の出発点を二〇〇一年九月十一日のテロ事件に定めるのではないだろうか。テロ事件によって、私たちの世界認識はガラリと変化してしまったからである。

 日本ではしかし、こうしたテロ事件の余波は、ウェーバー研究にはまだ現れていない。テロ事件後、それ以前に東大に提出された二つの博士論文――矢野善郎著『マックス・ウェーバーの方法論的合理主義』(創文社)、および羽入辰郎著『マックス・ヴェーバーの犯罪』――が相次いで刊行されているが、いずれもウェーバー研究の徹底した内在的方向性にその活路を見出すものであった。前者は既存のウェーバー研究を刷新する業績として、また後者は山本七平賞の受賞によってそれぞれ話題となった。後者の著作はその後、「羽入-折原論争」を生み出し、この論争に加わった論者たちのあいだで文献学的な研究が進展している(折原浩氏の一連の著作、例えば大著『学問の未来』未來社を参照)。

 ところが野口氏は、こうした日本のウェーバー研究事情にはいっさい触れずに、もっぱら世界政治とドイツ現代思想の文脈において、論を立てたところに新味がある。氏は文明の衝突や世界政治の闘争という視座から、ウェーバーの文化社会学や政治論を再構成しており、具体的にはマキャヴェリやジンメルとの関係、自然法理解、フェーゲリンの政治理論との比較などが探求されている。またその堅実な論理展開の背後で本書を面白くしているのは、いくつかの(長めの)補論等であろう。「ウェーバーのワーグナー解釈」や『音楽社会学』の位置づけ、あるいは、ハーバーマスやジンメルとの対比で読みこむウェーバーのボードレール解釈など、著者の研究の舞台裏には、豊饒な趣味の陶冶があることを伺わせる。政治思想の舞台と美学主義の舞台裏を往復するという氏の知的運動には、生活信条の上質さがあり、読み手をいっそう惹きつけるにちがいない。

 しかし本書最大の魅力は、なんといってもグノーシスをめぐるフェーゲリンとウェーバーの対比である。グノーシスとは現世を拒否する救済宗教の一形態であり、ウェーバーはこれをインドの神秘主義(達人倫理)に認めたにすぎなかったが、これに対してフェーゲリンは、全体主義諸国家の殲滅戦や、巨大な官僚機構(ウェーバーのいう「鉄の檻」)の閉塞感において、グノーシスへの希求が高まってきたことを指摘している。そこで著者は、ウェーバーの「信条倫理」概念を、フェーゲリン的な現代グノーシスの問題として捉え返し、これをウェーバー的責任倫理の観点から批判している。ウェーバーのいう多神論的な闘争観は、全体主義的なグノーシズムを抑制する規範となりうる、というのが著者の主張である。

 ただ本書の結論では、およそ八項目にわたって既存のウェーバー理解に対する「対抗テーゼ」が提出されているものの、どうも著者は、師の一人である故・藤原保信氏のウェーバー理解をベースにしているようで、私にはそれ自体がすでに陳腐であるように思える。対抗テーゼの意義は、それゆえ総じて消極的である。著者はおそらく、ウェーバー研究におけるもっと強い敵と「闘争」しなければならなかっただろう。もっとも、本書の結論の最後において強調されているのは、ハンチントンとウェーバーの異同であり、また、ウェーバーの政治的視座が「原理主義」と「グノーシズム」を同時に乗り越えるという、きわめて健全かつ思慮深い洞察である。かつて私も、「神々の闘争」という観点からウェーバー理論の発展を試みたことがあり、氏の結論には共感をもってこれを支持したい。著者に残された課題はおそらく、この闘争理論を展開するための拠点を発展させることではないか。今後の研究に注視すべき、気鋭のウェーバー学者が現れた。

 

 

[補論]

私はこの書評において、野口雅弘著『闘争と文化』の結論における「八つの対抗テーゼ」が消極的であるという発言をしましたので、この点を説明します。

 

対抗テーゼ(i):「ウェーバーの政治理論も、彼の比較文化社会学を基礎にして解釈されるべきである」との主張ですが、そのような著作は、すでに存在するのではないでしょうか。

対抗テーゼ(ii):「西洋合理主義は複数の合理性の関係性のあり方という意味での秩序の概念」であるから、「価値領域間の緊張関係を特徴とする」という主張は、矢野氏の著作を待つまでもなく、すでに共有された理解ではないでしょうか。

対抗テーゼ(iii):「ピューリタンは『西洋』のメルクマールである緊張関係を取り除こうとする」ので、「禁欲的プロテスタンティズム」と「『西洋』文化」は正反対の関係にある、との主張ですが、確かに、ピューリタンがニュー・イングランドにおいて神権政治を行なったというウェーバーの指摘を読みこむことは、現代的な意義があると思います。しかしこのテーゼは、「ウェーバーが自らの価値関心に照らしてピューリタンを異端視していた」との誤解を与えかねないので、以下にいくつか、「そうでもないだろう」ということをコメントします。

 まずウェーバーは「西洋」という概念を一貫して用いたわけではなく、「近代合理主義一般」、「中世におけるその萌芽形態」、「アジア的その他の文化との対比となるメルクマール」など、さまざまな意味で用いています。ここで、「西洋文化」を「政治権力と教権制権力の緊張関係」として捉えた場合、これを破るかたちで両者が同盟を結んだのは、御著書の77頁において指摘されているように、カロリンガ帝国とドイツ=ローマ帝国の絶頂期、カルヴィニズム的神聖政治の少数の例、ルター派およびイギリス国教会地域における強度に皇帝教皇主義的国家、カトリック・スペインの大統一国家、ボシュエ時代のフランス、などです。さて私が思うに、ウェーバーは、@とくに「禁欲的プロテスタンティズム」が「西洋文化=〈政治権力と教権制権力の緊張関係〉」を取り除くと述べているのではなく、例えばカトリックもまたそのような傾向があるとみています。また、Aイギリス国教会地域における強度に皇帝教皇主義的な国家を打ち破ろうとしたのは、他ならぬピューリタンではないでしょうか。だとすれば、ピューリタンこそ、政治と宗教の緊張関係の震源となったと言えないでしょうか。Bしばしばプロテスタンティズムの急進派がゴシック建築のドームを破壊した(69)からといって、それは西洋文化の否定になるわけではありません。ウェーバーのみるところ、カトリックもまた、「政治権力と教権制権力の緊張関係」を取り除こうとする傾向を内包しているからです。

対抗テーゼ(iv):プロテスタンティズムと聖戦の関係を『中間考察』と『宗教社会学』に読みこむという企ては、きわめて現代的であると思います。この読み込みを、例えば大塚久雄のウェーバー像との対比で位置づけるなどの試みがあると嬉しいです。

対抗テーゼ(v):ジンメルとウェーバーの比較は、手堅いものですが、なにか既存のテーゼを修正するという性質のものではないようにみえます。このテーゼは、日本では例えば、安閉吉男氏の研究との対比で、位置づけるべきではないでしょうか。

対抗テーゼ(vi):信条倫理と責任倫理をめぐるご主張は、御著書の注においても明確にされているとおり、基本的には後期シュルフターの主張を踏襲するものであり、消極的なものにとどまっているのではないでしょうか。

対抗テーゼ(v):闘争と悲劇の関係に関するテーゼですが、これについてはすでに小生が類似の理解をふまえて、拙著『社会科学の人間学』においてさらなる理論的展開を試みています。ただ、ここで「権力政治」を相対化するという主張は重要であると思います。

対抗テーゼ(viii):ここで、フェーゲリンとの対比でウェーバーを論じている点は、現代的な意義をもつと思います。しかしウェーバーの多神論的価値論が、反全体主義的かつ反グノーシス的であるとの主張には、本文(とくに174)を読むかぎり、説得させられませんでした。ウェーバーは、闘争の不可避性を主張しており、このことが「あらゆる闘争にピリオドを打とうとするグノーシス的最終闘争に対する歯止め」になっている、とのご指摘は正しいと思うのですが、しかしこのご指摘は、(この点はシュトラウスの洞察が正しいように見えるのですが、)ウェーバーの闘争論が、殲滅戦争の「対極」というよりも、そのような闘争に対する「歯止め」を提供するにとどまる、ということではないでしょうか。殲滅戦争の「対極」(たとえば自然法)ではなく「歯止め」というのが、デモーニッシュな契機を内在させた抗争的な合理性の理論であり、またフェーゲリン的な視角のウェーバー理解ではないでしょうか。ウェーバーの闘争論には、現世超越的な達人宗教の信条倫理(現世においてはグノーシス的な政治と結びつく危険がある)も含まれているように思います。

 

以上です。(20061108